ミスター・ミスコンに関する雑考

 

1891年4月、浅草。西洋史は専門外なので分からないが、日本に関して言えば、高層ビルの凌雲閣にて開かれた「百美人」を日本で初めて広く公に開かれた「ミスコン」に挙げていいと思う*1

モデルは芸妓から主に選ばれた。同じ背景の中でポーズを決めたモデルらの写真が展示され、来場者はそれらの写真を見て美人だと思ったモデルに票を入れる。これが厳密に言って日本で初めて開かれた美人コンテストの類かどうかは議論が要るが、少なくとも「日本のエッフェル塔」とも言われた当時の最新高層建築である凌雲閣で開かれたコンテストのインパクトは過去になく非常に大きかった。「百美人」の様は新聞にも取り上げられ、話題を呼んだようである。もしこれと同じことを今やったら、特大級のブーイングが来るだろう*2

 

凌雲閣の話を思い出したのは、駒場キャンパスでミスコンとミスターコン(以下、同コンテスト)の再考を促す団体「東京大学のミス&ミスターコンテストについて考える会」(以下、「考える会」)が活動を始めたと聞いたからだ*3Twitterで検索してみると、北大や阪大などでも同様の団体(を名乗る団体)を見つけた*4

先に言っておくと、自分は同コンテスト自体はあまり好きではない。知り合いが出ていたら応援して楽しむ、その程度である。ただ、「考える会」の主張には危機感を抱いている。

 

同コンテストがもし、先述の「百美人」のごとく壁に固定されて貼られた出場者を見に行く形式なら、批判は免れまい。固定された女性を選ぶ形式自体が、社会的通念に基づく女性像による「格付け」であるし、差別の再生産と捉えうる。

しかし、今の同コンテストは壁に固定された女性像を見に行く企画なのだろうか。東大の事例によって見れば、出場者は外見だけにとどまらず様々な自分の「魅力」をSNSや当日ステージでアピールしている。ダンスやギターなどの特技、筋トレやサッカーなどのスポーツ、絵画などの特技を各々でアピールし、それぞれのやり方で観客を引き付けようとしている。彼ら彼女らは「壁に貼られた消費対象」ではない。表現者だ。

しっかりと同コンテストを見つめれば、「考える会」が言う「誰がキャンパスで一番その「規範」に一致しているのかを決める企画だからです。*5」といった批判は出てこないはずだ。

 

さらに言えば、「投票の開始から最後まで、容姿に基づいて評価されます*6」という「考える会」の主張も的を得ない。というのも、写真や映像に映される容姿でさえ「表現」にすぎないからだ。外見の印象はファッションで大きく変わるうえ、写真の撮り方次第でもその人その人の魅力はいくらでも引き出せる。

写真も所詮は表現だ。確かに一人ひとりの持つ容姿は十人十色だが、同コンテストはそれを一人ひとりの魅力が現れる形に表現しているにすぎない。視覚的印象が評価基準なのは否定できないが、それ自体がいくらでも「盛れる」。

もし元々の顔が一人ひとり違うから良くないと言うなら、それは例えばレンブラントエル・グレコを「あいつはギリシャ生まれでビザンツ美術に触れてきたからスペインでは評価されるんだ、それはおかしい」と言い出すような、珍妙な話である。二人は生まれ持った背景も育ちも作風も違うが、二人とも自分の美点を伸ばして自分の芸術を完成させた。

 

もっとも、同コンテストに対して疑問に思うことも多々ある。もしもファイナリスト選考の段階で「百美人」式に選んでいるのなら、その点に関しては「考える会」の批判は当たっている。同コンテストでウェディングドレスを着ているのも、出演者が結婚自体を忌避したい場合や同性愛だった場合に自由が保障されるか、といった点も疑問である。広告研究会も駒場祭という公の場で行う以上、そういった声があるなら配慮する義務はある

また万が一誰かがミス東大を「東大生が認めた! 東大一の美貌の持ち主!」などと宣伝しようものなら、それは非常に品がない同一化に他ならない。そこはピンポイントで批判すればいい。

 

しかし、同コンテスト自体を廃止すべきという方向性があるとしたら、それは決定的に次元が違う。それは例えばウェディングドレスの是非といった運営方法の改善案を超えて、表現の場を奪うことになるからだ。同コンテストも表現の「ワンオブゼム」であり、差別を直接助長・扇動しているわけでもない。表現の場の排斥は性差別や人種差別などと同列に許してはいけない。

 

2019年のミスター東大ファイナリストとして出場された赤尾将希氏のツイートを、以下に引用させていただこうと思う*7

ミスミスターコンへの批判で改めて思ったけど、表現する側に多様性や寛容さを求めすぎなんじゃない。表現に責任は負うべきだけど、それを過度に要求することはかえって画一化や偏見、排除なんかを招きかねない。

 

立場やしがらみも恐らくはある当事者としては精一杯の意思表明なのではないか。ファイナリストとして最後まで自分を表現してきた人の発言と思うと、考えさせられるものがある。

 

繰り返しになるが、自分は今の同コンテストにそこまで思い入れがある訳ではない。出場する気も一切ない。表現の場を奪うことになる運動に関しては絶対に反対、それだけの話だ。壁に貼られた女性ではなく、自ら表現する活き活きとしたファイナリスト、その充足した表情を奪い取ることは、どう考えても正義とは思えない。

 

*1:凌雲閣と百美人に関しては、佐藤健二浅草公園 凌雲閣十二階――失われた〈高さ〉の歴史社会学』弘文堂、2016年 が詳しい

*2:女性は家に入るものとされた当時の価値観の中では画期的だった。ただし先述のとおり出場者は主に芸妓に絞られている。むろん現代では女性の写真のみを見て顔に優劣をつけるなど「産めよ増やせよお国のために」並みにあり得ない話だ。

*3:Twitterのアカウントは https://twitter.com/thinkaboutmiss1?s=20 2019年12月18日閲覧

*4:北大の同コンテスト反対団体を名乗るTwitterhttps://twitter.com/missconwwww?s=20、阪大はhttps://twitter.com/AMA095?s=20。 ともに2019年12月18日閲覧

*5:https://twitter.com/thinkaboutmiss1/status/1207131000628662272?s=20 2019年12月18日閲覧

*6:https://twitter.com/thinkaboutmiss1/status/1207131000628662272?s=20 2019年12月18日閲覧

*7:https://twitter.com/mrtodai_19_03/status/1202141284070088704?s=20 2019年12月18日閲覧