「掟の門」を前にして

 考え事が行き詰まったとき、「掟の門」がふと脳裏をよぎり、その本を久しぶりに開いてみた。

 

 フランツ・カフカはとっつきにくい。解釈の糸口もつかめないさえある。自分の読解力不足なのか、それともそういうものなのか。もう何年か前に買った岩波文庫の『カフカ短篇集』も、最近はめっきり手に取らなくなっていた。

 久しぶりに読み返してみたが、数年前に考えてもわからないまま放棄した記憶が蘇ったことが、全体として一番の収穫だった。カフカは、通常ではありえない設定をまるで業務連絡のように淡々と報告し、奇妙な印象だけ残して去ってしまう。比較的長い「流刑地にて」「中年のひとり者ブルームフェルト」などに至っては、途中から読むのが苦痛になってしまった。

 そんな有様だから、最初に読んだ「掟の門」だけが印象に残るのか。そうとも言えない気がする。

 

 その短篇は、「掟の門に門番が立っていた。そこへ田舎から一人の男がやって来て、入れてくれ、といった。」という書き出しから始まる。男が頼んでも、その屈強な門番は入れてくれない。しかも中へ入ったとしても、部屋ごとにより強い番人が待ち構えているという。男は何年も待った。命の灯が消えるその直前まで待った。

 

 そこまでカフカを読んだところで、机の上に投げ出した論文へとまた目が行く。

 分からないことだらけだった。一度過ぎてしまった過去を扱う歴史学の研究は、どうしても残された史料に振り回されることから逃げられない。史料の欠損や残存状況の偏り、参照過程の偏り、さらには遺した人間自身の本源的なバイアスなどが積み重なって、門の前に立ちはばかる番人へと化ける。ようやく門の前に辿り着いたばかりの自分はあまりにも非力で、それらに立ち向かっていいのかも分からない。おまけに目の前の一人を倒したところで、奥に何人の番人が控えているかも分からない(折りしもの新型コロナウイルス騒動で、武器が手に入らないという事情もあるけれど)。

 

 「掟の門」の結末に自分を重ねてみる。待ち続けた男のいのちが尽きかけていた。最後の気力で男は尋ねる。誰しもが掟を求めているはずだ。なのになぜ、この門で待ち続けているのは自分だけだったのか。意識が薄れゆく男に門番は怒鳴る。「ほかの誰ひとり、ここには入れない。この門は、おまえひとりのためのものだった」と。

 

 「掟の門」のイメージは、研究に限らず何かに行き詰まるたびに自分の頭の中をよぎる。掟は誰しもが求めているのかもしれないが、求め方は人それぞれであり、誰かがやってくれる訳ではない。門の構造や材質を教えてくれる人はいたとしても、自分に代わって門を開けてくれる人はいない。門にたどり着くまでに歩いてきた道もまた、誰かの跡だけを辿ってきた訳ではない。

 そして思い出す。目の前の門は決して最初の門だった訳ではなかった。掟の門は、今までの人生の中でたくさんあったし、やけくそで何度も立ち上がっては門番たちを殴りつけてきた。

 

 「掟の門」だけがカフカの中で印象に残る理由は、きっと読んだ時期に関係があるのだろう。大学に入りたての頃。最初に読んだあの頃、きっと大学が掟の門へと重なっていた。あの頃になんとか最初の門を潜った。途中でいくつかに道は分かれ、そして選んだ結果としてまた目の前に門がある。あと何個の門があるのか、あるいは無数に続くのか。この門の先に掟はあるのかないのか、あるいは既にダミーの門をくぐってしまったか。楽しいような、恐ろしいような。痛みをこらえつつ、また門番を睨みつけて立ち向かう。

 

 

引用

F. カフカ「掟の門」(池内紀編訳『カフカ短篇集』P9-P12、岩波文庫、1987年)